今日は日本の色んな場所で様々な手法をつかったアート作品を表現する現代アートチーム「目[mé]」についてご紹介したいと思います。
このアートチームは、アーティスト 荒神明香さん、ディレクター 南川憲二さん、インストーラー 増井宏文さんを中心として2012年に結成されました。個々の技術や適性を活かしたチーム・クリエイションによる制作活動を展開し、観客を含めた状況/導線を重視し、「我々の捉える世界の”それ”が、”それそのもの”となることから解放する」作品を発表しています。
私が彼らを知ったのは、2021年の夏に公開された「まさゆめ」というアートプロジェクトでした。東京・代々木公園の上空に実在する人物の巨大な顔が浮かんでおり、その光景がSNS等で拡散され話題になっていたのがきっかけでした。もしかしたら見覚えのある方もいらっしゃるのではないでしょうか。このプロジェクトは荒神明香さんが中学生の頃に見た「人間の顔が月のように浮かんでいる夢」に着想を得ており、個人のプライベートな体験を公共空間に展開することで、「個」と「公」の関係性を問いかけるものでした 。
コロナ禍でマスク生活を送ってた時期/タイミングに、実在する人物の顔をモチーフにした作品を空に浮かべるというこのプロジェクトのスケール感とコンセプトに一瞬で心を奪われました。
そして2023年には、目[mé]がディレクション担当した「さいたま国際芸術祭2023」にも足を運びました。
「さいたま国際芸術祭」は文化芸術による都市としての魅力向上を目指し、さいたま市を舞台に3年に一度開催されるイベントなのですが、この年は旧市民会館おおみやで行われていました。

この会場、旧市民会館おおみには「動線」が張り巡らされていました。鑑賞者は、透明板のフレームを連結して作られた通路に沿って館内を歩き、ときに分断や接続される空間を回遊しながら、作品へと誘導されていくのです。フレームは透明板で作られているため、向こう側を意識させる「窓」のような機能も持たされていました。
このフレームがなければただの廊下なのに、フレームがあるだけで目に入る映像が「窓」から見えている景色のように感じられ、また見るべき対象であるように感じたことを覚えています。
そしてこの会場には、至る所に「スケーパー」(目[mé]の造語)が仕掛けられていました。
スケーパーとは
景色を表す「scape」に人・物・動作を示す接尾辞「-er」を加えた目[mé]による造語。例えば「道端であまりに綺麗に並ぶ落ち葉」や「絵を描く姿さえ絵になっている風景画家」、「いかにもコンテンポラリーダンスを観に来た観客」といった、パフォーマンスなのかそうでないのか定かでない、景色の一部に見えるが、じつは人為的な人間やものを指す
私がこの日に目にした、建物の内側からは決して手が届かない場所に置いてあった紙コップや、同じ場所を何時間もひたすらに掃除している清掃員さんはきっとスケーパーだったのだろうと思います。(これはほんの一部で、探し始めたら数えきれない程スケーパーが散りばめられていました)

また、別のフロアにはアーティストさんの作品もたくさん展示されていました。印象に残っている2つの作品をご紹介させていただきます。
谷口真人さんの「私たちは一つの物語しか選べないのか?」という作品は、アクリル板に描かれ、そのアクリル板の向えに置いてある鏡に人物の表情が写っているというものでした。人間の二面性を感じつつも、自分が生きていく世界は1つだけということに対する切なさのようなものを感じました。

今村源さんの「うらにムカウ」は、視界から入る情報の処理が一瞬追いつかなくなるような作品で、どこからが現実でどこからか仮想空間のような感覚を抱いてしまうものでした。

2025年後半の彼らの動向についての情報はまだないのですが、新潟県にある越後妻有里山現代美術館 MonETでは、彼らのインスタレーション作品「movements」が通年で見ることができます。この作品は無数の小さな時計をムクドリの群れのように配置し造られており、じっと見ていると、時計の針の動きが近くの時計と連動しているようにも見えたり、個体が団体に見えたり、団体のなかの個体に目が行ったり…。意味と無意味、主体と客体、個と公、それら両極の間の世界を感じられるような作品、空間になっています。


大地の芸術祭公式サイトより引用
今後も日本の至るところで彼らの作品に触れることができることを楽しみに過ごそうと思います。またアートイベントなど、目[mé]の作品に触れる機会があれば、ご紹介させてください!